「猪木さんのピークは1974年」説〜『猪木戦記 第2巻 燃える闘魂編』おすすめポイント10コ〜 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が記念すべき60回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。





かゆい所に手が届く猪木ヒストリーの決定版!
日本プロレス時代から新日本プロレス時代まで、不世出のプロレスラー・アントニオ猪木の戦い、一挙一動を超マニアックな視点で詳しく追う。プロレス史研究の第一人者である筆者が猪木について書き下ろす渾身の書。全3巻。
第2巻には、新日本プロレスを旗揚げした1972年(昭和47年)から、黎明期の苦難を経て、強豪外国人との激闘、数々の大物日本人対決、異種格闘技戦で人気絶頂を極める1976年(昭和51年)までを掲載。

【目次】
1972年(昭和47年)
ノーテレビの苦境下、ゴッチとの名勝負をよりどころに臥薪嘗胆の日々

1973年(昭和48年)
坂口、NET、シン、NWFの力を得て大反転攻勢に転じる!

1974年(昭和49年)
歴史的名勝負を連発し、レスラー人生最高の1年となる

1975年(昭和50年)
最初の「引退危機」を脱し、ロビンソンと生涯ベストバウト

1976年(昭和51年)
ルスカ戦、アリ戦で世間・世界を大いに賑わす!


著者
流 智美(ながれ・ともみ)
1957年11月16日、茨城県水戸市出身。80年、一橋大学経済学部卒。大学在学中にプロレス評論家の草分け、田鶴浜弘に弟子入りし、洋書翻訳の手伝いをしながら世界プロレス史の基本を習得。81年4月からベースボール・マガジン社のプロレス雑誌(『月刊プロレス』、『デラックス・プロレス』、『プロレス・アルバム』)にフリーライターとしてデビュー。以降、定期連載を持ちながらレトロ・プロレス関係のビデオ、DVDボックス監修&ナビゲーター、テレビ解説者、各種トークショー司会などで幅広く活躍。



今回は2023年にベースボール・マガジン社さんから発売されました流智美さんの『猪木戦記 第2巻 燃える闘魂編』を紹介させていただきます。

2022年10月に逝去された「燃える闘魂」アントニオ猪木さん。プロレス界のカリスマである猪木さんを追悼する書籍や番組が世に出ましたが、遂にあの流智美さんによる猪木本が発売されました。いよいよ真打ちの登場!

その内容は「日本プロレス時代から新日本プロレス時代まで、不世出のプロレスラー・アントニオ猪木の戦い、一挙一動を超マニアックな視点で詳しく追う。プロレス史研究の第一人者である流智美氏が3巻に渡り、猪木について書き下ろす渾身の書」という内容。

流さんといえば、一時期「プロレス博士」「日本一プロレスに詳しい男」と呼ばれた重鎮プロレス評論家で、2018年7月にアメリカのアマレス&プロレス博物館「National Hall of Fame」ライター部門で殿堂入り、2023年3月にはアメリカのプロレスラーOB組織「Cauliflower Alley Club」最優秀ヒストリアン部門を受賞したプロレスマスコミ界のレジェンドなのです。

以前『猪木戦記 第1巻 若獅子編』をご紹介させていただきました。



今まで知らなかった知識や流さんのエピソードが面白かったです。

今回は『猪木戦記 第2巻 燃える闘魂編』の各章ごとに個人的な見どころをプレゼンしていきたいと思います!

思えば流さんは「1974年のアントニオ猪木がピークだった」とスポーツ報知さんのインタビューで語っていました。


この本を深掘りすれば1972年〜1976年までの猪木さんを考察しています。流さんが語った「アントニオ猪木のピークは1974年」と語った理由が分かるような気がします。


よろしくお願い致します!


★1.「地獄固め」とは何か?!
【1972年(昭和47年)ノーテレビの苦境下、ゴッチとの名勝負をよりどころに臥薪嘗胆の日々

まずは1972年。新日本プロレスが旗揚げした年です。いきなり流さんは猪木さんが新日本旗揚げを機に開発したという新必殺技「地獄固め」の話をぶっこんでいます。名前は聞いたことがありましたが、忘れてました。

実はこの「地獄固め」は後に「鎌固め」と呼ばれるようになった技で、そのオリジナルは猪木さんなんです。リバース・インディアンデスロックで足を固めて、ブリッジしてチンロック。アメリカではグレート・ムタが使っていたので「ムタロック」と呼ばれています。

ちなみに「鎌固め」という名称は、『ワールドプロレスリング』の舟橋慶一アナウンサーが実況で連呼したことによりこの名前が定着したようです。

私は「鎌固め」大好きで、確か1992年1月4日東京ドーム大会の馳浩戦で、馳さんの鎌固めを、猪木さんが逆に顎を極める「逆鎌固め」も話題となりました。

冒頭からマニアック知識を展開する流智美ワールドが爆発しているのです。


★2.ゴッチ・ベルトの秘密
【1972年(昭和47年)ノーテレビの苦境下、ゴッチとの名勝負をよりどころに臥薪嘗胆の日々】
 
新日本プロレス旗揚げ戦のメインイベントで猪木さんと対戦したのが「神様」カール・ゴッチ。その後も何度も行われた猪木VSゴッチには、「世界ヘビー級王座」をかけて行われました。まさに新日本黎明期を支えたストロングスタイルの名勝負でした。

1972年10月4日・蔵前国技館で「実力世界一」と呼ばれていたゴッチにリングアウトで破り、「世界ヘビー級王座」を獲得した猪木さん。流さん曰くゴッチの私有物だったこのベルト、実は日本製で割りと新しかったそうです。後にこのベルトは、古舘伊知郎アナウンサーが『ワールドプロレスリング』から勇退する時に猪木さんからプレゼントされています。

猪木さんが腰に巻いたチャンピオンベルトのなかでもこの「世界ヘビー級王座」はかなりレアな代物だったのかもしれません。


★3.「これはタイガー・ジート・シンというインドのレスラーです」
【1973年(昭和48年)坂口、NET、シン、NWFの力を得て大反転攻勢に転じる!】

1973年は日本プロレスの坂口征二を含めた数名が新日本に移籍したことに伴い、NETテレビ(テレビ朝日)による『ワールドプロレスリング』中継がスタート。ノーテレビで旗揚げした新日本にいよいよテレビ局の力を得ることになる。

新日本初期の最大のヒット作は「インドの狂虎」タイガー・ジェット・シン。エースである猪木さんのライバルとして立ちはだかる悪役レスラー。実はこのシンの初登場は客席から試合に乱入して、山本小鉄さんをチョーク攻撃で絞め落とすという衝撃をもたらしました。    

流さん曰く、レスラーなのかも分からない謎の外国人について、実況の舟橋アナウンサー「これはいったい、誰ですか?」と解説の鈴木庄一さんと問いかけると「これはおそらくタイガー・ジート・シンというインドのレスラーです」と即答したそうです。当時のシンは日本ではほぼ無名だったので、そこまで即答したということは鈴木さんのアンテナが凄かったということかもしれません。

伝説のプロレス記者、日本プロレスマスコミ界のご意見番である鈴木さんのようにもしほとんどの人が分からない選手や現象、技とかが目の前に現れた時にきちんと分かりやすく伝えられる人間になりたいなとこのエピソードを読んだ時に感じました。かなり痺れました。  




★4.マスコミ初の主催プロレス興業で実現した世界最強タッグ戦
【1973年(昭和48年)坂口、NET、シン、NWFの力を得て大反転攻勢に転じる!】
  
マスコミが主催する興業といえば、『プロレス夢のオールスター戦』『夢の懸け橋』『ALL TOGETHER』などありますが、その元祖が東京スポーツが主催した1973年10月14日・新日本・蔵前国技館大会。

その経緯もこの本に書かれていますが、メインイベントのアントニオ猪木&坂口征二VSルー・テーズ&カール・ゴッチの世界最強タッグ戦は、なんと東京スポーツの櫻井康雄さんのアイデアだったそうです。テーズとゴッチのギャラ、ホテルと飛行機代、会場の使用料を東京スポーツで負担。東京スポーツが興業を買い取った新日本にとっての売り興業。

櫻井さんは「このカードでもし蔵前国技館が半分しか埋まらないとなると企画者の私は切腹ものでした」と語っています。結果は1万2000人の超満員となり、世界最強タッグ戦は歴史的名勝負となりました。  

当時東京スポーツの井上博社長は「これからは猪木が日本のプロレス界を牽引する」と語り、「猪木を中心の紙面作り」を決断。新日本プロレスを創世記から支えているのはやはり東京スポーツだったということがこの


★5.アントニオ猪木VSストロング小林
【1974年(昭和49年)歴史的名勝負を連発し、レスラー人生最高の1年となる】

流さんがかつて語っていた「猪木さんのピークは1974年」という真相に迫る章に突入。まずは1974年3月19日・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木VSストロング小林のNWF世界ヘビー級戦。前年12月にジョニー・パワーズを破り、NWF世界ヘビー級王座を獲得した猪木さんの初防衛戦は、禁断の日本人大物対決。

ストロング小林は元国際プロレスのエース。団体の至宝IWA世界ヘビー級王座を幾度も防衛してきた「怒涛の怪力」を相手に猪木さんが調印式から仕掛けた作戦とは?流さんが考察する猪木VS小林とは?

これはめちゃめちゃ面白い。改めて猪木さんの凄さと恐ろしさを感じました。詳しくはこの本を読んでご確認ください。


★6.アントニオ猪木VS大木金太郎
【1974年(昭和49年)歴史的名勝負を連発し、レスラー人生最高の1年となる】

1974年10月10日・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木VS大木金太郎のNWF世界ヘビー級戦。日本プロレス時代の因縁が絡んだ喧嘩マッチ。

こちらに関して流さんは「過激な仕掛け人」新間寿さんの証言をもとにまとめています。

読み進めていくと1974年の猪木さんを論じていく流さんの文章には自然と熱が帯びているように感じました。


★7.ジャイアント馬場への挑戦状
【1974年(昭和49年)歴史的名勝負を連発し、レスラー人生最高の1年となる】

1974年12月13日付けで猪木さんが全日本プロレスのジャイアント馬場さん宛に「対戦要望書」を送っています。アントニオ猪木と署名が入っていますが、やはり文章を作成したのは「過激な仕掛け人」新間寿さん。個人的には打倒・馬場を猪木さん以上に燃えていたのは新間さんじゃないのかと思います。それだけこの文面には怨念と情念を感じます。








★8.アントニオ猪木VSビル・ロビンソン
【1975年(昭和50年)最初の「引退危機」を脱し、ロビンソンと生涯ベストバウト】

1975年12月11日・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木VSビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級戦。この試合も歴史的名勝負となりました。

国際プロレスの外国人エースとして活躍した「人間風車」ビル・ロビンソンと猪木さんが行った唯一のシングル戦は、プロレスの源流のひとつとも言われている「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の達人であるロビンソンに、猪木さんが「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の攻防を中心に展開していったテクニカルな激闘を、流さんはロビンソンの証言を元にまとめています。

これも面白い。今思うと当時のロビンソンは37歳、猪木さんは32歳で、ちょうどキャリア的にもいい時期に遭遇したことも含めて奇跡の一戦だったと思います。 
 
それにしても初遭遇した対戦相手に猪木さんは次々と名勝負を展開している。本当に名勝負製造機です。


★9.世間に賑わしたルスカ、アリとの「格闘技世界一決定戦」
【1976年(昭和51年)ルスカ戦、アリ戦で世間・世界を大いに賑わす!】

1976年の猪木さんは「ミュンヘン五輪柔道金メダリスト」ウィリエム・ルスカや「プロボクシング世界ヘビー級王者」モハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」でプロレス界や格闘技界だけではなく、世間や世界を賑わしています。また、「パキスタンの英雄」アクラム・ペールワン戦で猪木さんはダブルリストロックでペールワンの左肩を脱臼させた「カラチの悲劇」などかなり物騒な事件も起こしています。

1974年の猪木さんはピークならば、猪木さんを全世界に轟くような仕掛けを行ったのは1976年と言えるかもしれません。





★10.流さんによる「猪木さんのピークは1974年」


流さんは以前、スポーツ報知さんのインタビューでこのように語っています。

「私は欠かさずテレビでアントニオ猪木の試合を見てきました。1974年のアントニオ猪木は、ただひたすら素晴らしかった。我々ファンがひれ伏すだけの1年だったんです。この年の猪木がピークなのは間違いない。誰が何と言っても、これだけは譲れません。(中略) 3月19日、蔵前でのストロング小林戦に始まり、4月26日、広島での第1回ワールドリーグ戦・坂口征二戦。6月26日には大阪でのタイガー・ジェット・シン戦、8月のカール・ゴッチとの『実力世界一決定戦』2連戦(大阪府立、日大講堂)。10月10日の蔵前での大木金太郎戦、12月12日の蔵前、小林との再戦…全てにおいて、文句のつけようのない1年だったんです」 


流さんはこの『闘魂戦記 第2巻』でこの説を文章を使って立証しようと試みた作品だったと思います。実際に読み進めていき、流さんの「猪木さんのピークは1974年」説は納得できました。要は1974年の猪木さんは色々と神懸っていたんです。

その一方でこの本がなぜ1976年で終わっているのか疑問だったのですが、それもスポーツ報知さんのインタビューで明確に分かりました。

「(1976年の)モハメド・アリ戦の後のグダグダの試合は、僕としては見ていられなかったです。試合中に蹴りを繰り出すと、お客さんが『アリキックだ!』と沸くわけです。そこに猪木さんが引っ張られて、ウケを狙ってしまい、試合のリズムがめちゃくちゃになったと思います。アリ戦で得たものも大きかったけど、実は失ったものも大きかった。アリキックがなかったころの、美しい『起承転結』を見せていた頃の猪木が、僕にとっての全てですね」

つまり『闘魂戦記 第2巻』とは流さんが愛する美しい「起承転結」プロレスを見せていた頃の猪木さんの魅力を詰め込んだラブレターのようなものなのです。 

だからアリ戦が行われた1976年でこの本を締めくくるのはよく理解できます。そうなると次作『闘魂戦記 第3巻』を流さんはどのように描いていくのか、楽しみさと不安も入り交じる感情を抱きました。

ピート・ロバーツやスティーブ・ライトの猪木さんは一騎打ちをしていたとか。マサ斎藤さんとも1970年代に一騎打ちしていたとか、意外なことも分かるのも超プロレスマニアである流さんが手掛けた本だからこそです。

今回はこの本の一部をご紹介しましたが、「この部分が面白い」とか読み手によっては多種多様な違った味わいを感じるのではないでしょうか。


 

 

この本はプロレスマニアもビギナーも、元プロレスファンも楽しめる作品です!是非チェックのほどよろしくお願いします!